紅蓮華

1993年公開の作品である。
戦争未亡人さくら(秋吉久美子)に結婚を申しこまれた没落旧家の長男中田健造(役所広司)、しかし彼には愛人洋子(武田久美子)がいた。結婚に当たり、「愛人との関係は清算した」とさくらには話した健造。両親の反対を押し切って家出同然で健造のもとにやってきたさくら。新しい生活を迎えたものの、結核で長期自宅療養することになってしまう。
しかしその間も洋子との関係は結婚前と同じように続いていた。さくらの結核が全快した日、突然洋子が「健造さんのお姉さんのお手伝いをしにきた」と言って家に乗り込んでくる。さくらの詰問に対し、「僕にもよくわからない、彼女が勝手に来たんだ」といいかげんな返事をする健造。しかし実際には夜になると洋子は健造のもとへと行くのである。
この状況がしばらく続いた。さくらは一計を案じることにする。精神薄弱である健造の弟裕造と洋子とを結婚させようというのだ。やむをえずこの策を認めた健造であったが、実際には結婚後も洋子との関係は続いていた。ところが洋子に子供が生まれると状況は一変。それまで兄と妻との関係を黙視していた裕造は「兄さん、もう来ないで」と主張し、洋子も健造を拒否する。女に捨てられた恰好となった健造は、酒に溺れる生活に。
そんな折、それまで頼りにされていた母親が死去。それまでは母親の願いである「家の再興」を一つの「張り」としていた健造だったが、ここに至って全く生きる価値というものを見いだせなくなってしまう。その結果として残された道はひとつであった。

健造は一見極めて物静かなサラリーマンだ。しかしその内面はどうだろう。妻がいる家庭に愛人を持ち込むという大それたことをするが、「愛情がない結婚生活なのだから、愛人を持っても良いのではないか」とあっさり断言してしまうのだから精神に熱いものがある男なのだろう。妻と愛人の相違を示す場面として、「ビールを飲もうとしている健造に対し、ビール瓶だけ持ってきてコップを持ってこないさくら」と「仕事に出掛ける健造にいち早く気づいて身支度をする洋子」のシーンが象徴的だ。
中盤以降、洋子との関係が解消されると、途端に健造は自堕落になっていく。もともと「小さな幸せ、そいつが俺は大嫌いなんだ」と話すなど、「不幸に対する憧憬」の強い健造であっが、要は愛情に飢えていたのだ。更に自分を必要としてくれていた母親の死が健造を追い詰める。家からロープを持ち出し「どこかで死んでくる」と出掛けていったり、ビルの屋上から飛び下りると自宅に電話したり・・・(このあたりの役所氏の「狂いぶり」がこの作品の見どころでもある)
ところが結局は死なない。死ぬことを口に出すものの、実際に行動に移せるだけの勇気はない。このあたりが「グッド・バイ」と共通するところだ。しかしそんな健造に対して真剣にぶつかってくるさくらの行動を目の当たりにし、健造はついにさくらが自分にに愛情を持っているということを知る。逆にそれが健造に「死」に対する強い意思を持たせることとなったのだ。

全編に太宰文学あたりに通じる世界のある作品で、既に紹介した「グッド・バイ」との共通項も見られるところだ。
役所広司映画作品の時期からいくと、「アナザーウェイ」「オーロラ」と「極東黒社会」「しのいだれ」の中間期の作品であり、単発ドラマ出演が比較的多く映画というものに対して距離を置いていた時期の作品でもある。最近はあまりこういった「自堕落な役」のないところであるが、かつてはこういった作品も多くあった。
DVD化もされてはいるが、としてもレンタル店あたりにも置いてなさそうな作品ではあるが、機会があれば是非観ていただきたい。

ところで、この映画のソフトは3種類(ビデオ2種類・DVD)ある。
私が最初に私の入手したビデオ(便宜上ver.2と呼んでおく)は、タイトルからして「紅蓮花」と違うところに来て、「セクシー女優・武田久美子出演作品」というキャッチがあり、パッケージ写真も武田久美子、挿入されているカットも武田久美子の濡れ場シーンである。
実際は上にも書いたようにメインは健造とさくらとの関係を描いた作品だ。何となく商業主義的なものを感じるのは私だけだろうか。
また、DVDもレトロ趣向からか役所氏の名前が「役所廣司」と表記されている。これも違和感が強い。

(初稿2000/5/28)

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