ユリイカ

4時間という長さと、公開直前に映画と符合するかのように発生したバスジャック事件(これまた西鉄バスだったのは記憶に新しい)もあり、話題先行となった感が否めない作品である。ことにバスジャック事件の直後には、公開に対する懸念も感じられた。実際問題として公開後にあの事件が発生していたとしたら、この映画は間違い無く抹殺されてしまっただろう。
そういった背景はともかく、その内容の奥深さは、役所広司出演作品中でも一二を争う傑作である。ただその「尺の長さ」は確かに気になるところであるし、映像効果となっている色彩も単調であるし、「動き」の少ない作品でもあるため、興行に疑問符がついたのもまた事実である。
しかしながら実際映画にふれてみると、全体が(私見ではあるが)大別して5つの部分に分かれていて、なおかつ有機的に統合されているため、1時間程度のストーリーを5本見ているような感覚となり、案外時間のたつのを早く感じる作品となっている。色彩・動きという点についても当初は戸惑う部分も多いが、慣れてくるにつれ通常の映画と変わり無くなってくるから不思議だ。色彩の無さは登場人物が感じている現実との遊離の表現として効果をあげているし、よくよく考えれば白黒映画や漫画の世界ではモノトーンが当然なのだから、それを理由として敬遠するというのは間違った認識であろう。もうひとつの懸念である「尺の長さ」についても、一気に観ようと思わなければ別にかまわないのだ。実際私も映画館で観た後、DVDを購入したのだが、4日ぐらいに分けて見たほどである。こういう場合に頭出・プログラム再生による時間設定が容易なDVDはやはり便利だ。
全体を通して非常に難解な作品であり、解釈も人それぞれだと思うが、とりあえず筆者の感じたことを以下に記したいと思う。

発端・バスジャック

前述の通りバスジャックの描写が話題になった作品ではあるが、実際にバスジャックの場面というのは意外と短い。しかしながら全てはここから始まるのであり、強烈なインパクトを与える場面であることは間違いない。
この時点においてはバスの運転手である沢井(役所広司)もたまたま乗り合わせていた兄(田村直樹・・・宮崎将)妹(田村梢・・・宮崎あおい)も一般社会に生活するただの市民である。その市民の生活に突如降ってわいたような災難、それがバスジャック事件だ。
まず観る者を戸惑わせるのがこの犯人の目的が明確にされていない点だろう。単純な愉快犯というわけでもなく、凶悪な殺人鬼でもない。こちらもごく一般的な市民なのである。では目的は何かということになるが、筆者は「自分というものを発見すべく」犯行に及んだものとみた。人の命を奪うことにより、自分の存在が見えてくる、ことを期待した行動。しかしそれは当然ながら社会にとって受け入れられないことであり、社会秩序の象徴ともいえる警察によってあっけなく射殺される。沢井と兄妹にとって、確かにバスジャック犯は恐怖の対象に相違ないが、より一層の恐怖はその犯人をあっさりと撃ち殺した刑事に向けられる(ように筆者は感じた)方法はともかく自分というものを見出そうとした人間をいとも簡単に抹殺してしまう「社会」というものに対する恐怖。それが救出後の沢井の過剰なまでの「震え」となって顕れているのではないだろうか。この恐怖は本来社会とは矛盾するものである「自己表現」に対する恐怖であり、以後3人は苦悩の日々を送ることとなる。

社会からの遊離

沢井は事件後仕事をやめ、兄の元に身を寄せていたものの、突如妻を残して家出する。一方兄妹はマスコミの好奇の目にさらされ家庭も崩壊、結果として3人は社会から疎外された状況となり、いよいよ自己空間に入り込んでいくこととなる。1年の家出から突如舞い戻った沢井は、とりあえず知り合いの土建業者で働くことになるが、非常に常識的な人間である兄との対立もあり何となく家にいてもうまくいかない感じ。職場に勤める女性に積極アプローチされても、他者との接触を避ける気持ちからか拒絶してしまう。折しも婦女連続通り魔事件が発生、世間体を考える兄からこの女性との関係を問いただされても何ら反論をしない沢井は、社会というものから徹底的に逃避する人間であった。

奇妙な同居

沢井は偶然にも兄妹が近くに2人きりで住んでいることを知る。このまま兄の家に同居し今の生活を続けても出口が無いことを感じていた沢井は、同じ境遇にあるだろう兄妹と生活することで何かが見つかるのではないかと考え、半ば強引に同居生活をはじめる。同居前は何か心ここにあらず的な沢井であったが、同居により自己の存在を意識できるようになったのか、沢井は徐々に人間らしさを取り戻して行く。しかし兄妹の方はなかなか心を開かない。従兄弟の秋彦(斉藤洋一郎)もやってきて4人による同居生活となるが、兄妹は自分のカラに閉じこもったままだ。
人間らしさを取り戻してきた沢井は、妻との離別も乗り越え、職場の女性との交流も受け入れることができるようになるが、その矢先当の女性が殺害されてしまう。重要参考人として取調べを受ける沢井。(このあたりから空咳をするようになる)結局は証拠不充分で釈放となるが、兄夫婦の態度は厳しく、再び自己を見失いかけてしまう。

発見の旅へ

閉じられた「家」という世界で兄妹と同居生活を続けても何ら解決にならないことを悟った沢井は、外の世界に向っていくことを考える。彼が選んだ方法は「バスによる自分探し」であった。このあたりはロードムービーの典型的な流れともいえる。沢井が選んだ「バス」という手段に秋彦は反発し、「家」という守られた空間で過ごすことを主張する。極めて常識的な意見だ。しかし兄妹は沢井の提案に同意した。兄妹も自分を探すためには社会に飛び出していかなければならないと感じていたのだろうか。結局秋彦も同意し、バスは発車する。沢井が初めに行き先として選んだのはバスジャックの現場となった駐車場。全ての出発点であるところから自分探しをはじめようとする決意の顕れだ。
車中で秋彦は自分の過去を話し始める。自分も過去にトラブルに巻き込まれ殺されそうになったことがあるという。その現場に向うことを提案する沢井であったが、その気はないと断る秋彦。この時点で沢井&兄妹と秋彦の間に自己発見というものに対する意識の相違がみて取れる。秋彦の言動に不快感を覚える人もいるだろうが、自己発見から逃避し続ける秋彦は、すなわち社会の中で無難に生きていこうとする我々そのものではないだろうかという疑問を観る者につきつける。
平穏無事と思われていた旅行であったが、再び通り魔事件が発生する。秋彦は沢井を疑うが、結果として全ての犯行は直樹によるものであったことがわかる。沢井に対し「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う直樹。直樹はあのバスジャック犯と同様、人の命を奪うことで自己存在の確認をしていたのだ。一方沢井は自らが痛み・苦しみを感じることで自己存在を確認しようとしていた。旅の過程で徐々に悪化する空咳に対しても何ら対策をとらなかったことがそれを暗示している。直樹の問いに対する沢井の回答は、直樹にナイフで斬りつけることだった。他人に頼らず自分で痛みを感じろというメッセージであると筆者は感じた。自首する直樹に「生きろとは言わん、死なんでくれ」という哲学的な言葉を伝える沢井は、既に自己回復を完了しつつあったのだ。

ユリイカ

直樹の行動を知った秋彦は、「一生病院にいることが直樹にとって幸福なんだ」と沢井に話す。そのことに対し沢井は怒り、秋彦をバスから降ろし置き去りにする。秋彦の言動の内に自己発見をしようとする者を排除する社会そのものを感じたからだ。秋彦を置き去りにした沢井の行動は、社会に対し戦っていくという姿勢の顕れであろう。社会に対し目を背けてきた前半の沢井とは正反対の人格だ。以後は梢との2人旅となるが、この部分がもっとも難解。筆者には最後まで自己発見の方法に苦悩していた梢も「自分の周りにいて自分を守ってくれていた人間との関係を断つ(=名前を呼びながら貝を放り投げる)ことで自分自身の判断で前に進んでいくことができるようになった」(この時点で色彩が復活することから、モノトーンの世界は梢の精神を象徴するものだったのであろう)と感じられたのだが、このあたりは全くの私見であり、違う見方もありそうだ。「救いの無い映画」と評した人もいるわけだから。

まとめに

筆者は初めに「役所広司の出演作でも一二を争う傑作」と書いた。この沢井という人物の微妙な変化(内面から表出する精神状態の変化のみならず、肉体的な変化である空咳の音まで)を表現できる俳優は役所広司をおいて他にないだろう。さらにこれだけの長時間かつともすれば単調になりがちな作品ながら時間が短く感じられるのは、映画そのものの力もあるだろうが俳優の力であり、ことに子役をメインに配した作品での成功はまさに奇蹟的である。(この後梢役の宮崎あおいが着目されているのは周知の通り)この点からも傑作という評価は過分なものではないだろう。以上長々と駄文を記したが、DVDも発売されている(長編の割に価格は一般の作品同様なので割安感があると思う)のでぜひ観ていただきたい一本である。

(初稿2002/4/25)

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