突入せよ!あさま山荘事件

言うまでもなく、30年前に日本中がTVに釘付けとなった「あさま山荘事件」を題材にした作品である。
役所広司は現場と理想とのギャップに苦悩する指揮官を熱演。対策本部の熱気とそれと対照的な厳寒の外気が観客に自らも現場で行動しているかのような臨場感を与える。実際に突入する場面での迫力も凄まじい。この場面、劇場では率直に言ってよく台詞が聞き取れなかったが、あえてそういう撮り方をしているのも「臨場感」を重視する原田監督的である。その一方で長野県警とのやりとりで思わず笑ってしまう場面や、突入前夜の昂揚を表す「やかん振り回し」シーンなども印象深い。

さて、映画評論サイト等の評価でよく目にするのが「赤軍派を描いていないのが駄目だ」「長野県警はあれほど酷くなかった」という評だ。しかしこの事件を「歴史」として叙述した作品に対し上記の不備を指摘するのならともかく、この映画に関して上のような論評をしても全く筋違いである。

そもそもこの映画の原作は現場指揮官となっていた佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』によるものであり、事件のとらえ方も指揮官の視点に立ったものとなるのは初めからわかっていることだ。映画としてこの原作を原田眞人監督が選択した意図には、山荘立てこもりという非常事態に直面した警察機構の混乱を観客に見せることで、日本の組織全般に欠けている「危機管理意識の不備」を改めて浮かび上がらせる狙いもあるように思われる。こうした制作意図がある以上、観客を作品世界に引きずり込むために「臨場感」をより重視しなければならない。立てこもる側の論理主張や山荘内での動きを描くと蛇足どころか却って「ネタばれ」になる懸念の方がはるかに大きい。実際に当時現場にいた人間や、TVで固唾をのんで見守っていた一般大衆には、赤軍派がどういった論理で行動していたのかや、山荘内でどんな状況にあったかは全く知る由のない世界だったのだから、それを観客に見せてしまうのは「ネタばれ」以外の何ものでもない。

もしあえてこの題材において両者を均等に扱おうとするならば、作り手は当然ながら受け手側も「あさま山荘事件」という歴史的事実を解明しようとする人間として事件の背景・当事者に対し客観性を持つことを心がけなければならない。これは歴史研究・叙述の際に求められるスタンスであり、現場の臨場感やドラマ性というものは極力排除していかなければならない。
このことを公開直後ある方がこのHPのチャットで書かれた表現を借りれば、「立て籠もる側の論理・行動を表現すると、その両方を見てしまった観客は『傍観者』にならなければいけない」となる。

仮に初めからこの事件を歴史的事実という観点からとらえた客観的にとらえた原作を用い、両者の動向を時系列的に淡々とたどっていくような映画であれば、観客を傍観者とする展開となっても何ら問題はない。また、同じ佐々氏の原作を使ったとしても、監督によっては歴史叙述ての色を強めるべく脚本段階で立てこもっている赤軍派の動向を積極的に加えていったかもしれない。しかし原田眞人という監督の作品で私が観たことのある「KAMIKAZE」「バウンス」「呪縛」に共通するのは、「観客が登場人物のすぐ隣にいるような臨場感」を重視しているということだ。中には臨場感を出すために、あえて台詞を聞き取りにくくしているように思える場面もある。明朗な展開提示よりも臨場感を重視している姿勢があるように感じられる。その監督が、臨場感あふれる佐々氏の原作を改変して「歴史叙述」にこだわる作品を制作するとは到底思えない。

結局、この作品は最初から「客観的な歴史的事実としての、あさま山荘事件」を描き出すことが狙いではなく、「事件にあたり現場指揮官が抱いた感覚」を観客に臨場感と共に追体験させるための作品なのだ。このため、立て籠もる側の状況に言及することは全く意味のないことになる。長野県警の描き方にしても、この狙いに基づき現場指揮官が感じたままを率直に映像化しているのだから、何ら批判されるべき事はない。

故に「赤軍派を描いていないから駄目だ」とか「長野県警の描き方が酷い」と評するのは、自分が作り手の狙いを全く理解できなかったことを臆面もなく声を大にして主張していることになる。加えて、自分が「どんな場合でも実在の事件は歴史事実として客観的に取り扱わなければならない」という凝り固まった考えしか持てない人間であることを露呈している。主観による脚色と客観的な事実とが全くの別物であるということがわからず、ただ自らの知識を無意味に誇らしげに語っていることを裏付けてしまっていることに気づかないのだろうか。

(初稿2003/1/13)

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